2010年12月27日月曜日

お伊勢参り

 一生に一度は「お伊勢参り」へ
 60年に毎に「おかげまいり」
 「ええじゃないか、ええじゃないか」
 天からお金が降ってくる。
 講を組み、お伊勢さんへ

1.お伊勢参り Ⅰ 豊中  おかげ常夜灯
2.お伊勢参り Ⅱ 小川村郷土誌
3.お伊勢参り  『山田村郷土誌』より
九日間  
1日 大津泊
2日 石部水口、横田川、水口で昼食、大野(焼き鳥、かいが坂)、
小栗判官の墓、 「鈴鹿権現」、「関の地蔵」  関(泊)
3日 津で昼食  松坂町(泊)
4日 宮川、伊勢の両宮   古市(泊)
5日 二見ヶ浦       松坂(泊)
6日 津にて昼食      関(泊)
7日 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」
水口で昼食 草津(泊)
8日 近江地域を観光    伏見(泊)
村人が迎える
9日 芥川で昼食

その後、小学校の修学旅行となる。

その他の資料
「小川村郷土史」
地図「街道筋 御定人馬賃銭附 駅々宿屋附 日本全国道程図」
天保14年    安政4年5月 刻成


   お伊勢参り Ⅱ
   お伊勢参り 

   関宿場 お伊勢参り


2013/10/03 追加
『新修豊中市史 第5巻 古文書・古記録』(豊中市)p648-650「参宮送迎諸入用帳」に、庄本村(現在の豊中市南部)の伊勢講の弘化4(1847)年の諸経費の記録があり。参宮の際には大坂方面からの伊勢参宮の起点となる玉造まで見送りに行ったり、帰ってきた者を出迎えて村境で祝宴を張ったりしていたことがわかる。p651-653「抜参宮届」には、書類や往来手形なしで参宮する「抜参り」を行った者についての明和8(1771)年の菰江村(現在の豊中市南部)の届書があり。またp665-669「御蔭参宮次第記録」には、天保元年(1830年)から2年にかけての集団的な抜参りや御蔭踊りについての南刀根山村(現在の豊中市北部)の文書があり。

『新修豊中市史 第7巻 民俗』p64-67「伊勢講」によると、天文5(1536)年の文書に、伊勢参りの費用に充てるための田が服部村(現在の豊中市中部)にあったとの記録があるとのこと。伊勢講は各村に存在し、伊勢参りを終えて一人前とされていた。こうした若者(主に男性)の伊勢参りが明治末期までは続いていたとの記載があり。
『新修豊中市史 第1巻 通史1』p846-848「御蔭参り」には、安政6(1859)年に刷られた、岡町の米庄を講元とする伊勢参り千枝講の定宿帳(宿の紹介)の写真などがあり、伊勢参り・御蔭参りについても記載されている。

なお『とよなか歴史・文化財ガイドブック』(豊中市教育委員会)p78「豊中市指定文化財」によると、「長興寺村文書付大伊勢講文書」が市の指定文化財になっている。

茨木の伊勢講  「わがまち 茨木」

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