2011年10月31日月曜日

「手塚治虫」!   「 わっぱる」で見つけた

何度か訪れた 「わっぱる」

そこには 手塚治虫が なん枚かありました。

1979年国際児童年記念事業  『手塚 治虫と未来をえがこう』



 ミュージアム














駅のポスターで


豊中市 救命講習修了証


 救命力 世界一宣言








2011年10月28日金曜日

拓本と表装展  道標があるのか

案内が来ましたの ぜひ 見学に行こうと思います。
今週 土・日 と お泊りのボランティアが入っていますので
金曜日しか 見学の時間がありません。


平成23年度 吹田市民文化祭参加

・東日本大震災復興支援

拓本と表装展

日時:平成23年11月11日(金)~13日(日)

午前10時~午後5時 最終日は午後4時まで

場所:吹田市文化会館(メイシアター)1階展示室

(阪急電鉄吹田駅下車 西改札口から徒歩1分)

場無料・ご自由にお入りください

吹田市拓本クラブのこの1年間の活動を見ていただき

たくご案内申し上げます。なお拓本実習コーナーを設け

ます。ぜひ拓本を体験してみてください

主催 吹田市教育委員会

吹田市文化団体協議会

吹田市拓本会

出展 吹田市拓本クラブ

(北千里拓本クラブ・大阪吹田摂陵拓本クラブ

・南吹田表装クラブ)

連絡先「拓本と表装展」開催事務局 久藤 昭太郎


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2012/02/07  追加  アンコールワット関係
アンコールワット保存会 講演案内 

 アンコールワット保存会 講演会   箕面市立郷土史会館 

箕面市立郷土資料館  拓本 

拓本と表装展 メイシアター 

 『箕面から大坂への道しるべ展』






2011年10月27日木曜日

最初の一歩となる  「へー」と驚き!

驚きから これが、街道・道標を調べるきっかけに
最初のデジカメ使用当時のカメラは 「35万画素」
マシンも動きが遅い。写真の編集にはトイレに行く時間があるほどだ。
 マルチメディア対応と言いながら 遅かった。
ウィンドウズ98、このソフトは私のマシンに最初のウィンドウズである。
これ以後 マシンを書き換えたが、今、98の後は XPを使い続けている。
校区にある街道 勝尾寺街道を探索Ⅰ
歩きました。 そこから疑問と感動が

箕面市萱野にある道標 説明書が付いている。
「へー、物言わぬ石、 歴史があるんだ!」
JA横ありましたが現在は元の位置に戻っています。
新御堂筋と171号線が交わる「萱野の交差点」の北東にあります。
そこが旧西国街道です。そこで箕面の滝と分岐します。
表参道です。 ここから36丁 





西国23番札所「応頂山勝尾寺」


『思い出 Ⅰ』 豊中三中 『琵琶湖と私たち』

『思い出 Ⅱ』 豊中九中 『初めての教え子』

『思い出 Ⅲ』 豊中九中 『街道を探る』  その2 

2011年10月26日水曜日

役行者の家来 前鬼後鬼が盗まれる!

 
「役行者前鬼後鬼」の前鬼後鬼が盗まれる。(毎日新聞)

読み方  役行者 えんのぎょうじゃ  えんの おづの



役行者とは

役行者像が多い箕面街道



新高公園の道標


最近 私のブログ「十三の新高公園道標の旧在所 確定」にアクセスが多くなっています。


そこに 質問が来ました。
 
” 新高公園の道標に関する考察を拝見しました。

今津っ子さんの考察をプリントして何度か読み返して、ほぼ正しそうに思いましたが

道標の位置から本庄の渡しまでの距離が3km以上にもなってしまいますので

その点にやや疑問が生じてくるようです。

そこでtenn-tenn は距離を基準に位置を特定しようと考えられたのでしょう。

そうなると、ここで1つ、道標と福泉寺との位置関係が問題になってくると思われます。

福泉山□□□ ← この文字を確認する方法はないのでしょうか?

道標に損傷を与えないように紙を当てた上から色の付いた平らなモノでこすってみるとか

できないのでしょうか。

未知の道標文字から重要なヒントが出てくることを期待しています。

そうですか!  まだまだ説明不足です。
結論を先に 道標と福泉寺の関係は、 次のように考えます。
 福泉寺と書かれていたから近くの公園に設置した。 放置された道標があり、その立ってた位置が不明であった可能性が高い。それを福泉山と見えるので、福泉寺に関係あるものとして、福泉寺に預けるのが普通ですが、福泉寺としても、何処に立っていたかが分からないので、境内に持ち込まれなかった。しかたなく関係のある寺の近くの公園に設置したものと思われます。 
 例えば この場所にある道標だから上の理論を当てはめることが可能ですが、同じ道標が全然違う場所に設置されていたとしたら、それは当てはまらくなります。 現在設置されている場所からの推測も必要ですが、基本になるのは表示のルールと街道です。今回は同じ方向での表示については「すぐ」が主で同じ面に「右」とあるのは途中で「右」へ行きなさいというルールです。そのことは十三神津神社にある、小嶋北口道標もそれで説明できますし、新高公園の道標も同じです。
 道標は一般の人が利用するには、「すぐ」はすぐであるのが当然で、ここではこうだ、そこではそうだ と一般的でなくなります。
 もう一つは、本来道標が伝いたいこと、石の、道標の記載文字から特定すべきだとおもいます。能勢街道に一部東西の道があるとは考えにくいですが、距離、東西の道を探して道標の立っていた位置を特定しました。まだまだミステリーがあるのではないですか!

福泉山■■■ は多分 方向が書いてないので行き先ではないと思い「福泉寺」だと思います。
 文字の確認方法は レーザーで浮かび出す方法もありますが、高価でしょう。
 一般的に 「拓本」に頼ります。
 拓本の現場では、 見えにくい文字も浮かび上がります。
 拓本は色々な方がやられていますが 「アンコールワット拓本協会」があります。

さて疑問が解決していません。  街道は遠回りはしません。最短距離を取るのが普通です。
また、道標は 一般の人が利用しますので、説明が必要な物は 道標になりにくいと思います。
ここの道標の場合はこうだ、ここではこうだ! などの説明が要るものではないものだと考えます。 
 ですから、道標の表示に対して、ルール・一般的・原理的なるものがあると考えます。

そのルールを提案します。
 さて、道標はそれが立っている場所と距離に関係します。
もし、高麗橋東詰めに道標があったとするならば 江戸後期 中国道では
  「すぐ あまがさき  のせ」 となるのでしょうが!

十三の渡しでは 「すぐ あまがさき  右 のせ」と同列・同じ高さの表示になります。

 もし、十三の渡しの手前では(分岐の無いところ)表示は同じですが、 
  「すぐ あまがさき  のせ」    

 親切に表示するとチョッと違って 右・指表示 になるのではないでしょうか。 
 「すぐ あまがさき  右(☞) のせ」
 (まっすぐ 進むと 尼崎  途中で 右に折れる能勢への分岐がある。 )
 
  それが、現時点での新高公園の道標表示についての私の結論で、道標の表示に関するルールだと思います。

     
今回のような表示方法  「違う方向の地名を同じ方向で表示」に関しての例として 
 「小島村北口道標」が揚げられます。
それは 

    「右ハ小島村宮稲荷社、すぐハ十三、左りハ本庄道」(寛政2)

   この道標は三叉路に立っていて、「右ハ」と「すぐ」は同じ方向にを指す。

 この道標をどのように解釈するかです。 どちらを主と考える場合「すぐ」が先です。

    「まっすぐ進むと十三の渡し 途中で右に小島村宮稲荷社があるよ!」

 私も、最初この道標を 4差路に経っていたのではないかと思っていました。
 
   この表示に関しても 他の資料で このような解釈をされていたと思います。

移動されたもので、旧在所が確定した事例は
1.新高公園の道標は   中島大水道をわたる、東西の橋の袂にあった
2.江坂の道標 は 旧在所 福知山市上天津の道標   
3.上新田墓地の道標は 上新田西口の道標
4.江坂西西道標 は 下新田の失われた「下の立石」?
5.ミステリーの解明「門戸岡田町の道標」

2011年10月23日日曜日

江坂西西道標 「博物館だより」に掲載

江坂周辺の文化財

これは 「博物館便り」の江坂周辺ガイドの中に
江坂西西道標が写真で紹介されています。
6. 江坂西道標の 左側の赤丸印 


この道標は
「吹田郷土史論文コンクールに投稿したものです。 



2011年10月20日木曜日

水と吹田  加賀眞砂子 ウォークイベント

ウォークイベント「吹田の名水と街道を歩く」  講師 加賀真砂子


実施日/10月16日(日) 集合/13時30分 高浜神社境内

解散/16時    垂水神社  

今日の 高浜神社境内  フリーマーケットと音楽




多くの参加がありました。


元気です。 段差、溝も平気でした。
元気です。
社殿は 元和3年 領主竹中氏の寄進による。
総けやきの三間社流造

境内で一番古い灯篭 元和6年(1620年)江戸初期
牛頭天王社といわれていた。

宮前通り 新高浜橋の手前「高浜小橋」

現在 水は流れていません。 そのような橋を掲載しています。
五位橋、中の島橋があります。 
大木さんへの道が昔の堤防であった。

地名「池田市石橋」 の橋を求めて


これが 「地名石橋」の石
西国街道と能勢街道が交差する西側の小川にかかっていた石の橋
幅二間 長さ 1間 の一枚岩


石橋南小学校の校庭にあります。
インターホンで了解をもらい、中へ、
何回もここいらは歩いていますが、初めての写真です。

その前に 校庭を南から回りましたら 2基の地蔵が




右側の地蔵はちょっとおもしろい。




2011年10月19日水曜日

十八中の池の地蔵を探しに 洋館 土蔵 蛍池もおもしろい


円満寺を出ると 地蔵の祠が


子安地蔵尊
日切地蔵尊
蛍姫地蔵尊
の三尊が祭られています。 日切、蛍姫 なにか言い伝えがあるようだ。
近所の人に大事にされていて、線香の煙が絶えることがないようだ、
三尊とも真っ黒であった。
これから 十八中の池の横に地蔵があると聞いていたので探索へ


こちらが参道がある  「延年山 円満寺」

旧麻田村  

途中で こんな家に出会いました。



「心で手をつなぐ十八中生
池の周りを回りましたが 結局見つからず。
仕方ない、調査不足 次回に

さて収穫なしではにが、これから帰るには 早すぎます。
方針をかえて 「石橋」の地名の石を探索します。 石橋に向かう
 


2011年10月18日火曜日

蛍池「円満寺」への道


 
蛍池の「円満寺」へ行く途中で 「蛍ケ池」の下に地蔵があります。

「蛍ケ池」
もう一つの池 「箕輪池」 水利組合がありました。

国道側からとりました。




有形文化財(彫刻)
木造漆箔阿弥陀仏如来座像 平安時代 

豊中百選 に選ばれた「紅葉」です。
ここを通り過ぎて。墓地へ

吹田風物百選



2011年10月17日月曜日

円満寺探索 石物 電話で

今日 朝 職場に電話があり、 高市光男先生
「校区のお寺 円満寺に 石物 の調査を手伝ってほしい」

円満寺 地図で調べると 「豊中百景」に選ばれ 円満寺の紅葉です。

hpで紹介文
   戦国時代の戦乱で焼失した後、麻田藩の初代藩主青木一重がこの地に再建したと伝えられています。石段を登りきった正面に本堂があります。秋の紅葉は見事で、特に本堂の左手の石垣に沿った紅葉は見事です。また、近年では阪急沿線の七福神めぐりの福禄寿として知られています。




 紅葉のお寺」として紹介されていました。


  石物は 墓標 左の陸軍のものを調べていた結果 横にあったもの

「故陸軍歩兵卒大西利三郎碑」



明治28年3月5日 於清国金州戦死


大西吉松建之 とある。

大きいものです。


この模様 チョッと古いぞ 室町時代か



円満寺をいろいろ調べていたら
この寺にもう一つ墓標  「中馬庚」があり (写真はない)