2011年12月30日金曜日

東淀川区

三宝寺西公園 東淀川区大桐2-10
大阪経済大学
碑番 名称 所在地 建立の年度 史跡の時代
24 江口の里 南江口3-13 寂光寺前 昭和36 平安
49 摂津県・豊崎県県庁所在地跡 東中島5-27 崇禅寺前 昭和39 明治
65 中島大水道跡 西淡路5 新幹線高架下 昭和43 江戸
105 平田の渡し跡 豊里3 豊里大橋北詰西側淀川堤防上 昭和55 江戸
132 乳牛牧跡 大桐5 平成3 平安
135 摂津国分尼寺跡 柴島2 法華寺前 平成5 奈良
167 柴島晒ゆかりの地 柴島2 平成15 江戸 江口橋 別府神社 東淀川区 稲生神社  東淀川区大桐3丁目14-55 出たところに道標 1185年の源平屋島の合戦で敗れた平家の武者達は、各地に四散し、源氏の目の届かぬ地方でひっそりと暮らしていました。三宝寺一帯にも多くの落武者が潜入し、農民となり森林を伐採し田畑を開拓して耕作を始めましたが、老松や古杉を切った崇りからか、不審火の発生や疫病が蔓延するなどの異変が生じました。これらを鎮めるため、1561年に現在の大桐3丁目に紅梅稲荷と呼ばれた稲生神社が創建され、大和郡山の源九郎稲荷と並んで近畿の二大稲荷とまでいわれ、多くの信仰を集めました。 しかし、1909年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮が広がり、大隅神社に合祀されていったんなくなりましたが、三宝寺町会の人々によって、1962年に大桐3丁目の現在の位置に遷宮され、三宝寺会館に併設されました。現在、町並みに溶け込み、昔と変わらず人々に大切にされています。 毎年7月23日には、夏祭りが開催され、御神輿(おみこし)やだんじりなどで賑わっています。 .
中島大水道跡(なかじまだいすいどうあと  地図・模型が東淀川区役所にある。江戸時代、北中島一帯は一万数千石の米を生産する農村でした。しかし、低湿地で土砂堆積による洪水がひどく、河川の氾濫は淀川治水工事によって防ぐことができましたが、田畑にあふれた雨水などは排除できず、村民は幕府に排水路の設置を何度も訴えました。 しかし許可はおりず、延宝元年(1673年)、たまりかねた一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が先頭に立って、排水路を設けてほしいと幕府に強く訴えました。延宝5年(1677年)、ようやく幕府は「工事に関する費用は、すべて百姓が負担する」という条件をつけて、排水路の設置を許可します。しかし、延宝年間は悪水で不作に苦しんでいたため、「せめて多少の補助を」と嘆願すると、感情を害した幕府は許可を取り消してしまいました。ついに耐えられなくなった三庄屋は、延宝6年(1678年)3月11日、新太郎松樋を水路の拠点として、無許可のまま工事を強行しました。村民たちは老若男女を問わず工事に参加し、昼夜の別なく働いて、福村吐口樋までの5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90センチメートル)の水路を28日間で完成させました(約50日間で完成させたという説もあります)。 許可を得ず強行した三庄屋に幕府は怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、三庄屋は同年4月9日、西村の細目木(さいのき:現在の淀川区西中島7丁目)付近で、江戸の方角を向き、抗議の自決をしました。村民たちはこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視できず、2年間をかけて補助金も出し、中島大水道を完成させました。 現在の東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り、大阪湾に直結した大水路は埋め立てられてしまいましたが、西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が建てられています。 .
三宝寺西公園東淀川区大桐2-10

0 件のコメント: