2013年8月5日月曜日

街道の歴史 池田街道 Ⅱ  亀岡街道は亀岡街道だ!

街道の歴史 池田街道   から考察
         元は日本の廃道(旧道倶楽部)より抜粋

江戸時代は 五街道が有名
  その他の道は行き先を言い表していた。 必要がなかった。
  1.近隣での交わり、交流はあったかもしれないが、大ぴらに行われたとは思えない。
  2.商業、巡礼、寺社参拝などで人の交流が行われるのは人口が増えた江戸中期以降である。
  3.明治になり、それまで、街道を行き先名で言い表していたが、同じ街道でも地域によって呼び名が違う、そこで、大阪府内での共通の名称が付けられたのが始まりで、現在の国道の元をなす。

史実  明治五年九月十二日第三百九号達
  主要道8道を指定 その内 北摂関係は
山崎街道 現西国街道
  
茨木街道 後の高槻街道 現在の亀岡街道
中国街道 中国道
池田街道 本庄渡しを経て池田より能勢丹波にいたる。 後の能勢街道

  この年は「亀岡街道」は出てこない。


亀岡街道が登場するのは
明治二十四年三月二十八日告示第四十五号 
 大阪を通る国道 2号線、3号線、26号線、29号線 4つ

 
県道
奈良街道の次に 能勢街道がこれが中津村大字下三番国道26号線より分岐能勢の県境まで
3番目に高槻街道 京橋から安満の西国街道まで

この年に亀岡街道が出てくる。しかし、行程は池田の木部の能勢街道から分岐余野街道までを亀岡街道と記載されている。  現在われわれが使用している亀岡街道とだいぶ違う。
 余野街道は 宇野辺高槻街道から東能勢余野の県境までとなってこちらが亀岡街道に近い。
 
 


それにもかかわらず、亀岡街道と言いたかったのではないでしょうか!
茨木市の街道、道標では 吹田と同じ「亀岡街道」になっていた。  
「この街道は高槻街道だ」というのではない。慣れ親しんでいる呼び名「亀岡街道」で!いいのではないか!
道標の次の2基に亀岡街道と記されている。
一つは 市場池の道標
もう一つは 宇野辺の道標で  亀岡街道と記されているのです。 この道標からこの街道の名称を亀岡街道と呼んだのかもしれない。そちらの方が有利だ。

 
 

だから、我々も「亀岡街道」で読んでいこうと思います。

高槻は江戸時代城があり、重要な位置にあったのでしょう。
吹田のアサヒビール工場の前の道を
大阪府道・京都府道14号を私たちは大阪高槻京都線と呼んでいる。
そこいらにも、高槻街道の流れがある。

もう一つは 名称とは違うが 街道、道は時代とともに変化することは別問題だ!

まだまだ問題があります。下記の2つ
垂水街道  豊島郡中豊島村大字長興寺より島下郡吹田村大字吹田高槻街道迄
横関街道  西成郡北中島村大字十八条より同郡川崎村大字川崎迄
 




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