2013年9月28日土曜日

ミステリー 一中に古寺の礎石か?


豊中退教だより 2013/09/25  高市光男
以前ここに取り上げた物が ミステリーに
先生も忙しいそうです。
問題を提起し、池田までいかれたとか 申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。
第8回 信州旅行 を計画 11月5日(火)~11月7日(木)

高市先生にさっそく電話をしました。
原稿がコピーでしたのでどうしてもこのようになってしましました。、
そこで、元の新聞を送ってもらうことにしました。
早速メールが届きました。 ありがとうございました。
送り主は私も知っている、お世話になった、昔の同僚です。
現在も元気な様子でテニスをやっておられるとのことでした。


豊中退教

だより

2013年9月25日

126号

〒561-0874

豊中市長興寺南3-5-11

全教豊中教職員組合気付

豊中退職教職員の会 発行









ミステリー
一中に古寺の礎石が?
                       高市光男

 まだ寒かったころ、上村和功氏から☎が入った。「一中に古いお寺の礎石があるで!」氏は一中で技術科の教師を務められていたころの知人である。退職されてから?文化財に強い関心を持たれ、ことに道標の調査は右に並ぶものはない。貴重な文化財が廃れていく現状に常に怒っておられ、いつも、何とかせい!と投げかけられる。

 さて、話の続きだが、まとめて言えば、本町の看景寺に金寺廃寺の礎石があるが、それにそっくりなものが一中にあるのだという。

 私は一中に13年在職し、すみからすみまで知らぬことはない。でも出てから28年になるからそれ以後のことは知らぬ。かといってそんな大切なものを持ち込むことも考えられぬ。そこで一応調査することにした。看景寺の礎石は門をくぐった右手にあり、文化財としての説明板もあった。200160くらいの石の中央に径64㎝の穴が削られ、さらにその中央に径8㎝、深さ10㎝程の穴がある。この部分は舎利穴とてシャカの骨を納めたものという。この寺は7世紀後半のものと「新修豊中市史」にみえるが、礎石のことは書かれていない。

普通礎石の柱台は凸状であり、この礎石のように凹状というのは知らなかったが、五重塔などの心柱にあたる部分であったからであろうか。

 さて一中の手水鉢であるが、なぜそういうかと言えば、私が一中時代からそう信じていたからである。中庭の校舎際の植木の陰にあった。そこになければならないという必然性のあるものではなかった。植木の葉や土ぼこりが積もって、きたならしいので何度も掃除をした記憶がある。今改めて見ると、昔の通り木の葉や泥で満杯になっていた。28年分の誇りだろうと思う。造りといい、周囲にある幅5㎝の帯状凸起も、おそらく底にある舎利状の凹みもないであろう。スコップを持参、土をどけてみれば!と上村氏に言ったが、未だ果たせられていないのではと思う。

 さて、次に疑問が浮かぶ。なぜ?不要の長物に近い手水鉢がここにあるのか?ということである。

 一中のあったとこは墓地だったと聞いたことがあるが「沿革誌」には書かれていない。法務局で土地台帳等で調査中ではあるが、その伝に間違いはなさそうである。「昭和の初め、小林一三(阪急)が曽根駅周辺に高級住宅地の開発に取り組み、自らもこの地に居住した。その関係で駅周辺の墓地の移転にかかった。その経緯は明らかではないが、追々現在の原田南町の原田曽根霊園に移した。そしてこの大きな厄介者が残されたものと思われる。

 法務局で土地台帳を調査したところ、原田村共同墓地、曽根村共同墓地は隣接してあったが昭和5年山林として地目変換の上同志土地に売却したこと。さらにその土地は一中の敷地には含まれていないことが明らかになった。その場所は曽根駅前に接し、一部道路ともなっているようである。

 さて、もうこれ以上の展開はなさそうである。あゝ!ミステリー


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