2014年10月22日水曜日

ミステリー 写真公開11/5  刀根山城跡  消滅???? 

アクセスが増えていますので 城跡の写真を公開
まともや 消える歴史?  刀根山城跡?   垂直断層消える!



 刀根山城跡  消滅????      豊中退教だより 138号別冊
                                高市光男
 ミステリー

刀根山城発見! そして消滅?
                           高市光男
1、刀根山城はいつの城?
 刀根山は「殿山」の転じたものという。納得のできる伝承である。
 元文元年(17詭)の「豊島郡志」には、
  『刀根山古砦 刀根山村ノ西、麻田村ノ上方ニアリ、稲葉伊予守左京亮、氏家
  常陸介等ガ陣営ナリ』
 と記している。江戸時代の各村明細帳の書式に、「古城」という項目があるのが
 普通であるが、刀根山村の明細帳にはこの記載はない。(豊中市史 資料編四)
  安田俊治著「桜井谷村郷土誌」(明治末稿本・豊中市立教育研究所刊)には
   『刀根山城砦 何人が始めて造営せしものか知る処なし。摂州高附上(写本)
 刀根山村の部に、「古城は天文の頃稲葉伊予守居之、天正の頃氏家常陸介稲葉氏
 と両人居之」と記し、天文年間(1532-1554)に始まったとしているが、当時
 稲葉氏は美濃国安八郡曽根城主であって、刀根山城とのかゝわりはない。天文は
 天正の誤記と断言できる。
 「信長記」には、織田信長が伊丹有岡城の荒木村重を討つため、美濃三人衆と呼
 ばれた稲葉彦六(伊予守)・氏家左京亮(常陸介)・安藤平左衛門(伊賀とも称
 す)および芥川(茨木の国人)を刀根山に配置し城砦を造らせた。この時天正6
 年12月11日である。翌7年4月、稲葉・芥川は河原取出(池田)、氏家は四角屋
 敷・安藤(伊賀)は加茂岸(川西)に前進、荒木を包囲せしめた。半年足らずで
 あったが、それぞれの家臣も含めた城砦の建設に努めた。
2、刀根山城の古跡ほ?
 その刀根山城はどこにあったか?と問われると、定かではなかった。
 安田俊治氏の「桜井谷村郷士誌」に、「其規模要害の方法等知る処なし、只地名
 に門口・出口・あやめ口・東、西射場・大町の筋・馬塚等を残せるにより、ホボ
 其大さを推測するに過ぎざるのみ。」と記している。明治末においてもその全容
 は幻に近かったかと思われる。

6、「豊中歴史を掘る会」
 この12月、豊中市教委と共催て「豊中の史跡・文化財をさぐる~福西茂さん
のスケッチから~」という展覧会を、豊中市中央公民館て開くことにした。
 この幾会に「豊中の歴史を掘る会」を結成した。会員は今のところ、上村和
功、三谷博、滝建三、田中勲と私の5人である。
 福西茂さんは、大飯市内て教員をされていたが、定年退職後、地域を歩き、
尋ね、スケッチをして、豊中市内だけても370点余の記録を書かれた。私は、
教育研究初時代、そのコピーを頂き、学校・教師の参考のために冊子を作り配
布したという緑がある。上村和功氏の熱意で、所蔵者てある教育委員会を動か
 し、仲間を集めて実現にこぎつけた次第てある。
 最近、地域の歴史忙ついて市民の関心が高まり、種々な活動が見られること
 は大変喜ばしいことてある。
 豊中市には「豊中市史」「新修豊中市史」の他若干の史書があるが、地域に
即した歴史はほとんど解からない。そこにお堂があっても、そこに石搭があっ
ても、その由来を語る人も、問う人もない。このようになった理由はいろいろ
 ある。
 明治以来、町村合併が急速に進められた。当初は、40ほどあった村が、い
 く度かの町村合併により、豊中市になった。それは行政と地域が遠くなったこ
 とを意味する。
 人口の流動が著しく、人と地域のつながりも希薄になる。昔から豊中に住ん
 でいるという人は何%あるだろうか。そこて伝承も切れている。
 市役所をはじめ地域の住民のために働くべき公務員も、市民ではないことが
多い。地域のことが解からないまゝ、関心を持たないまゝ、とにかく働いてい
 る。
 そんな中て、地域のことを掘り起し、記録を残し、遺物を残すことが、歴史
 を後世に残すことになるのてはないか。


豊中の史跡・文化財をさぐる
* 福西 茂さんのスケッチから *

場 所 豊中市立中央公民館
(阪急曽根駅東へ約300メートル 徒歩約5分)
展 示 平成26年12月5日(金)~12月11日(木)
10:00 ~ 17:00
主催   豊中の歴史を掘る会 ・豊中市教育委員会 
協力 シニア自然大学校豊中支部




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