2017年9月28日木曜日

吹田 秀吉が駆け抜けた 西国街道終了 講演会 参加者86名

日本輿地通志  享保20年 1735年
 江戸時代に編纂された畿内5か国の地誌江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。 関祖衡並河誠所が企画し
、各地をみずから探訪して古文書・古記録・伝承などを採録し、それら史資料をもとに記述を進めた[1][2]。そうした手法により、各項目の記述は詳細・精密であり、後世の五畿内の地誌・名所図会の類に盛んに引用され、後の『新編武蔵風土記稿』『新編相模風土記稿』といった地誌の編纂事業にも影響を与えた[2]だけでなく、当時の五畿内の事情を伝える資料として今日でもなお価値が高いものとして評価されている[2][3]。  
   ウィキペディア(五畿内誌)より

 『大日本地志大系』「五畿内志・泉州志」第一巻 p506(コマ番号76)
 (芦田伊人編、雄山閣出版)の摂津之一 
  国立国会図書館デジタルコレクション

 並河誠所「延喜式内社」を比定した人です。

以上 追加 2018/05/07

謀反直後の光秀書状
  
室町幕府再興説 裏付けか


津門の中道に関して 資料追加 2017/10/10
 このルートを提唱しています。 出口・片山ルート
 但し、今回歩いた 神崎川堤防を北上するルートは説明はないが表示されている。


2017/9/23 開催終了
吹田市立博物館での講演会 超満員ではないが
いつもの博物館よりは賑わっていたようだ。
吹田市立博物館講演会 86名参加
ありがとうございます。
テーマが議論されているのは津門の尼崎市ですので
尼崎市民の参加が多いと思いましたが、尼崎市の参加は1名 私の知り合いでした。
他市での宣伝が出来ていませんでした。
但し、歩きには多くの他市の参加がありました。
博物館での講演の様子。70名はなかったか!
本日 30日 に博物館で聞きましたら 86名の参加
多くの方が来られました、ありがとうございます。

面白い事実 経路
備中松山城〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2 から尼崎まで
Googleマップでは上記の通り 
 徒歩で36時間 169km
 2ルートが表示 ①三木市を通るルート          (旧西国街道)
          ②現在の国道2号線
    
秀吉が駆け抜けた吹田
日本輿地通志「津戸の中道」項 議論になった点 吹田編
記載地名 豊中 ➡ 吹田 ➡ 茨木 ➡ 高槻 では
 戸内(尼崎)-庄本ー牛立ー小曽根ー廣芝ー吹田ー小路ー七尾ー市場ー宇野邊ー茨木
 ー戸伏ー富田ー西五百住ー東五百住-芥川
 赤文字は秀吉が泊った場所   
 説① 大阪府「近畿地方歴史の道2大坂2」大阪府教育委員会
   「第六集 西国・丹波街道」項では
   小曽根村を北上し 吹田街道を東進する。
   片山村字出口を通り、吹田村に行き其処から亀岡街道を北上する
   吹田街道で大きな村・垂水村が「津戸の中道」には記載されていない。 
   「津戸の中道」に記載されている廣芝は通らない。
   下の絵図で小曽根村の横の青い線が説①です。
 説② 曲江説  「阪神間の街道を歩く」第2号 
   廣芝から糸田川を上り途中で出口に向かうか吹田街道迄出て、東進し出口へ
   斜めに通る道を通ると、なるほど、そういわれたら、そうかな!が確証は得られな
   い。明治18年の地図では、小径の記載がないこともあり、糸田川を上り、吹田街道
   に出るのがルートではないかと思う。小径・街道を走り
   出口(榎茶屋)から片山村を通るルート これが近道である。
   ただ、途中通る片山村の記載が「津戸の中道」にはない。 このルートは又、
   廣芝 ➡ 吹田 の「津戸の中道」に記載されている吹田を通らない。
 但し、この道が最短距離を行くルートというのがわかる。
  下の絵図で 赤い線(津門の中道)が説②です。
 写真:
  廣芝から七尾に向かう近道の斜めの道を探します。
 ①、②とも吹田街道を通る その後、字出口(片山村)
   有名な垂水神社を通過点としての表記がなされていない。 また、
   焦点の出口を通ることになるので、解説すると 出口は片山村で
   説①では、わざわざ吹田村に入り亀岡街道を北上する。Ⅴ字型の進路
   説②では、片山村を通り、吹田村を通らない。
   片山を通るルートが近道で急いでいる場合は 出口ではこのルートを執るのでしょう。 但し、片山村の表記されていないことが問題です。・・・・・となると、出口・片山ルートはとらないのでは。 また、片山ルートは道が狭いのと、かぎ型の道で歩きにくいことも挙げられるが どう考えるべきでしょうか!
   そこで、吹田街道・出口を通らないルート(吹田街道を使わないルート)を考えるひつようがある。そんな道があるのでしょうか! 廣芝から吹田への道
   もう一度、明治18年の地図を見て頂きたい、または、②曲 図16 吹田地区の絵図が掲げられ、糸田川から出口へのルートが描かれている。 詳しく見ると
   廣芝から 下新田村、上新田村、吹田も描かれている。
   すなわち、日本輿地通志の「津戸の中道」の項に廣芝からこのルートを通り、吹田へ となる。 下新田、上新田は吹田村です。 
 また、江戸時代の道路と川  でも このルートが記載されている。   
 
             わがまち岸部より
  廣芝から下新田上新田で吹田への道 堤防を通るのではないかと結論付ける。

    
写真:
参加者 51名(プラススタッフ8名)

中国の大返し

0 件のコメント: